失踪事件の以後に浴びせられたマスコからの非難のため、元来、人前に出ることを得意としなかったアガサは、徹底したマスコミ嫌いとなり、その後の生涯にわたって失踪事件については、ほとんど口を開かなかった。
唯一、1928年になってデイリー・メイル紙のインタビューで事件のことを聞かれ、「当時は相当に気落ちし、自殺を何度も試みようとしましたが死ぬことが出来ず、さまよっているうちに記憶を失っていました。こうした症状は母が亡くなった時から起きていて、そこに個人的な問題が重なったためにあのようなことになったのです」と語っている。
さらに、このインタビューではいくつかの謎についても答えている。
所持金の問題については、その年の冬は娘と海外で過ごそうとしていたので、ある程度の現金を引き落としていたのだという。
また、自殺を考えながら、車であちこちを回っていた時にニューランズ・コーナーで車を道から逸らせ、草むらに突っ込んでしまい、その衝撃でハンドルに頭をぶつけ、気がつくとハロゲートに来ていたのだと語っている。
事件は記憶喪失によって引き起こされたという見解は一貫していた。
アガサ自身も監修を行った「アガサ・クリスティー自伝」でも記憶喪失だったとして、この事件についてはごく軽くしか触れられていない。