一方、ケストネーの動きは保守系の新聞に嗅ぎつけられ、陸軍の名誉を傷つけようとする売国奴として糾弾されることになった。
ケストネーの元には脅迫文などが送りつけられる事態となった。そんな最中ケストネーの元に、報道を見たドレフュスの兄マテューがやってきた。
ケストネーの話を聞いてマテューは、ついに突破口が見えたことに歓喜した。すぐに、左翼系新聞社オロール社の主幹ジョルジュ・クレマンソーの元に持ち込んだ。クレマンソーは事の顛末を暴露するため、オロール紙で大々的に取り上げた。
この大スクープにフランス国内は騒然となった。この事態にあせった陸軍は事態を収拾するため、エストラジーを軍事裁判にかけることにした。
1898年、エストラジーの軍事裁判が行われた。ピカールが発見したエストラジーがドイツの武官に送ったとされる手紙「プチ・ブルー」が争点となった。
しかし、「プチ・ブルー」をピカールが発見してから1ヶ月もの間、上司に報告していなかったことやアンリが仕組んだピカールのスパイ疑惑などから、ピカールは軍人として信頼に足る人間ではないと判断され、十分な証拠とは認められなかった。
裁判はわずか数分の審理で結審された。エストラジーは無罪放免となった。これにはエストラジーの有罪を信じていたピカールやマテュー、クレマンソーなどの面々も愕然とした。