この裁判は軍事裁判であったが、あまりにも高い注目度のため、裁判の内容はすぐに明るみに出た。
その裁判内容にヨーロッパ中の記者たちも驚愕せざるを得なかった。三権分立を生み、司法の独立性を確立させたフランスで、裁判が力に屈した姿をまざまざと見せつけられたのだ
愛国主義を掲げる陸軍を中心とする反ドレフュス派が、売国奴ともいうべき、エストラジーをかばい、自らの保身のためになりふり構わず力を行使している姿は、外国人記者達にとって不気味なものに写っていた。
多くのフランス国民も暗澹たる気持ちになった。過剰なまでの愛国主義に対する矛盾と軍国主義的なものに対する恐怖を抱くようになった。
ルペール大統領にとってもこの判決は不服なものであった。すぐに大統領特赦が出されることになった。
しかし、ドレフュス派はこれをよしとはしなかった。これで、ドレフュスが特赦を受け入れれば裁判の判決を認めたことになるとして、特赦に対して反対の論陣をはった。
この特赦はギリギリの政治的な判断で出されたものでもあった。ドレフュスが特赦をはねのけ上告すれば、ドレフュス派と反ドレフュス派の対立はさらに過激化する。ドレフュスが特赦をうけいれることが双方の矛先をかわす、最後の手段でもあったのだ。
無罪を勝ち取るため戦い続けるか、国家の安定を考慮して特赦を受け入れるか、ドレフュスは重い決断を迫られることになった。
ドレフュスは精神的にギリギリな状態になるまでこの選択に追い詰められた。結局は愛国者としての自分を優先させることを決め、特赦を受け入れることにした。
ドレフュスは罪を認めた形になってしまったが、ドレフュス派は軍国主義に対する嫌悪感が広まり、反ドレフュス派が力を失いつつあることを感じていた。
実際に、この頃のフランスでは、社会主義に対して過去に無いほどの人気が集まったほどだった。
この世論の状況を見て、ドレフュス派は活発に動き続けた。次第にドレフュスを擁護しようとする声が多くを占めるようになった。
1903年、この世論を受けてドレフュスは自ら再審を要求した。再審は妥当と判断され、今回は軍事裁判ではなく、レンヌの高等裁判所で行われる事になった。
裁判所が調べてみると、ドレフュスが有罪となる根拠などなにも無いことが明らかになった。
1906年、裁判の結果、ドレフュスに出された判決は無効とされた。10年以上の歳月をかけてようやくドレフュスは自由の身となったのである。