ドレフュスは連隊長として陸軍に復帰し、同時に国からレジオンドヌール勲章を授与された。その翌年には健康上の理由から軍を離れるが、1935年に心臓発作のため76歳で死去するまで、家族と共に幸せな生活を送った。
ピカールもドレフュスが軍隊に復帰したのと同じ頃、昇進して陸軍に戻る事になった。その後は陸相の地位にまで昇りつめ、1914年に落馬事故で死亡した。
エミール・ゾラは一連の事件を著作「真実」にまとめて出版した。そして1902年に死亡した。死因は煙突が詰まった状態で、暖炉を焚いて寝てしまったために起きた一酸化炭素中毒と考えられているが、不可解な謎も残されている。
警察が調べたところ、煙突の排煙能力には問題がなく、なぜその日だけ煙突が詰まったのか説明がつかなかった。
考えられるのは何物かによって煙突が詰まるような仕掛けがされたことだった。しかし、誰がこのようなことを行ったのかは分からなかった。
事件はエストラジーが金に困り、機密情報をドイツの武官に売り渡したことに始まり、それが国を二分する大騒動となる事態を生んだが、結局エストラジーは罪に問われることはなかった。
亡命中に親族から横領で訴えられたためフランスに帰国することは出来ない身となるが、その後は新聞記者など職を転々とし、最後は缶詰の行商人としての生活を送り、1923年に死亡した。
こうしてフランスを激震させた事件は終わったわけが、事件が生んだ波紋はある歴史的な運動の引き金になった。
ドレフュス事件を取材した外国人記者の中にユダヤ系オーストリア人のテオドール・ヘルツルという人物がいた。
ヘルツルはフランスで巻き起こったユダヤ人への激しい差別を見て、ユダヤ人国家の必要性を強く感じるようになった。そして、ヘルツルはユダヤ人の祖国を取り戻そうとするシオニズム思想の提唱者となった。
この思想はユダヤ人国家の建設に向けた大きな運動となり、イスラエルの建国につながっていくのである。