1849年、フランクリン隊の安否について悲観論がさらに広がるなか、その消息をだれよりも案じ続けていた人物が表だって行動を始める。
フランクリンの妻ジェインである。いつ戻るとも知れない夫を、ただ待ち続けるしかない状況に彼女は耐え切れなくなっていた。
彼女はイギリス中の捕鯨船に捜索を願い出るため、イギリス中を行脚した。しかし、どの船もそうやすやすとは動いてくれない。そこで、ジェインは3000ポンドの報酬金を用意し、捜索に動いてくれる船を探し続けた。
一方、海軍省は最初の捜索隊がフランクリンを見つけられなかったことを受け、すぐに次の捜索隊を出発させていた。今度は海と陸、双方からの捜索だったが、依然として消息はつかめなかった。
1850年になっても状況は何も好転していなかった。言論界からはフランクリン隊の捜索に対して、これ以上国費を浪費すべきではないとの意見が出始める。その批判は、次第に北西航路の探険事業事態にも及ぶ。
「ここまで過酷な航路を開拓できたとして、活用する方法などあるのだろうか? そうだとしたら、いったい何の利益になるのか」
探険事業の根本すら疑問視する声が出始めていた。