1818年、フランクリン32歳の時に、前述した北西航路と北極点到達に向けた最初の探検隊の派遣が決定される。
この探検隊派遣の発表にイギリス中が沸いた。成功すれば人類史に刻まれるであろう大事業に多くの国民が賛同し、大きな期待を寄せた。
探検隊は、デイヴィット・バカン大佐率いる北極点への探険隊とジョン・ロス中佐率いる北西航路探検隊の2つの隊が組織された。フランクリンは北極点探険隊の副指揮官に任命された。
同年4月、大きな期待を寄せられるなか、2つの探検隊はそれぞれ2隻の軍艦でロンドンを出航した。しかし、双方の探検隊とも散々な結果しか残すことが出来なかった。
北極圏探険隊は航海の途中で氷に遮られてしまったため、当時の最北緯到達点、北緯81度30分に及ばない、北緯80度34分の地点までしか進む事ができなかった。
北西航路に至っては、ランカスター海峡を航行している途中で、北極地帯特有の光による錯視効果で、あるはずのない山脈を本物の山脈と見間違え、行く手を阻まれたものと判断し、まだ多くの余力を残しながら引き返してきてしまった。
指揮官のジョン・ロス中佐は帰国後、嘲笑の的にされてしまう。