内閣の中で再審に対する動きが広まりつつあった。これに過剰なまでに反発したのは陸軍であった。
再審を行うにも陸軍が所有している事件の資料が必要になるが、陸軍は書類の一つたりとも手放そうとはしなかった。軍国主義的な雰囲気はいまだ根強く、陸軍の発言力は相当に強かったのである。
1899年2月、フェリス・フォール大統領が死亡した。死因は心臓麻痺であった。余談になるが、フォールの死には様々な説が囁かれた。
ある国の要人と会合があったすぐあとのことでもあったため、ドイツの要人からドレフュス事件に関する衝撃的な報告を受けたことが原因であったとする説や国内の状況から心労がたたったためとも言われているが、愛人の腕の中で死んでいる所を発見されたとする説もあり、腹上死ではないかとも言われている。
フォールはドレフュス事件に対して終始はっきりとしない態度で真相究明には及び腰であった。この態度は政治全般に対しても似たようなものだった。そのため、死亡した時が唯一、大統領としてその名を轟かせた時であったとも言われた人物であった。
新しい大統領には左翼共和党のエミーユ・ルペールが選ばれた。これで事態は大きく動くことになった。前大統領と違い、ルペールは就任当初から事件と向き合い、慎重に検討を重ねた。そして再審の意向を表明した。
これに陸軍は猛烈な勢いで反意を翻した。その勢いは凄まじく、愛国者同盟と名乗る一部の過激なグループによって、大統領官邸へのクーデターが画策される事態となった。しかし、陸軍の首脳陣の1人、ロオジェ将軍が説得に動いたことでギリギリのとこで回避された。