このアンリ逮捕と死亡のニュースは大騒動を巻き起こした。
ドレフュス派は陸軍が事件を隠蔽するため裏工作があったことを責め立てた。いまだ多数を占める反ドレフュス派は、アンリが行った書類の改ざんは軍事機密を守るためのもので、事件を隠蔽しようとしたものではないとしてこれに反論した。
さらに、反ドレフュス派はドレフュス派が陸軍を陥れようとしているとして、「貴様等には愛国心が無いのか!」として愛国主義を盾にさかんになじった。
最初は意見の対立であったものが次第に異常なまでの熱を帯びていった。ついにはフランスの至るところでそれぞれの勢力が激しい衝突を繰り返した。この衝突はおびただしい数の負傷者を生み、内乱とでも呼ぶべき異常な状態を生んでいた。
この大騒動の最中、エストラジーが国外に脱出していたことが明らかになった。アンリが収監された日にイギリスに逃亡したのであった。
もちろんエストラジーの引き渡しを主張すべき事態であったが、当時のフランスとイギリスはアフリカの植民地問題で緊張状態にあり、それを行える状況になかった。何者かの手引きがあったのか、エストラジーはこの情勢を巧みに利用したのであった。
内閣はこの騒動を早急に沈静化する必要に迫られていた。そのためには事件に真の決着がつけられればならなかった。つまり、ドレフュスの再審を行うしかなかった。