1894年12月10から軍事裁判が始まった。この裁判は軍事機密に絡むものであったため非公開とされた。
裁判ではドレフュスの犯行とする根拠が争点となった。特にドレフュスの筆跡が注目された。陸軍側は非常に信頼のおける人間からの鑑定結果を受けているとして、ある人物を裁判に召喚した。
その人物とはアルフォンス・ベルティヨンであった。以前「モナリザ盗難事件」を紹介した際に登場したあの警察職員である。当時、ベルティヨンは新しい捜査手法を確立した人物として、その名は広く知れ渡っていた。陸軍はベルティヨンに裁判で証言させることで、ドレフュスを有罪に追い込む根拠としたのである。
しかし、ベルティヨンは犯罪者の身体的なデータの専門家ではあっても、筆跡鑑定の専門家ではなかった。ベルティヨンが筆跡の類似点を指摘したとしても、どれほどの科学的根拠をもつかは疑わしいものであった。
実は、陸軍は当時のフランスで筆跡鑑定の第一人者とされた人物による筆跡の鑑定も依頼していた。その人物の判定は「同一の人物のものとは思えない」というものであった。無論、このことは裁判では語られることはなかった。
裁判が始まってから3日後に評決が下された。裁判員の満場一致でドレフュスは有罪とされ、終身的な流刑が決定した。送り先はアフリカにある伝染病患者が収容されていた、通称「悪魔島」と呼ばれる孤島であった。