これに目を付けたのが、14世紀のフランス王フィリップ4世であった。当時のフランスは慢性的な財政難の状況にあり、テンプル騎士団への借金は膨大な額に上っていた。
テンプル騎士団を壊滅させ、その資産を全て没収できれば財政難が一挙に解決する上に、豊富な資金を元にヨーロッパにおいて優位な立場に立てると考えたのだ。
この思惑を実現するため、フィリップ4世はテンプル騎士団に罪を着せることにした。
突如テンプル騎士団は、フランス政府によって異端者として団員の多くが逮捕されることになった。悪魔崇拝や男色などの反キリスト教的な行為をしていたというのがその罪状であった。
当時の教皇クレメンス5世はフランス国王が意のままに動かせる人間であり、罪状をでっちあげることは簡単な事だったのだ。
団員たちは事実無根であるとして、無実を訴えた。しかし、フランス政府は団員たちに罪を認めさせるために、手足を引きちぎるなどの凄まじい拷問を行った。
異端審問を経てテンプル騎士団は異端者の集団という烙印を押されることになった。罪を認めなかった50名あまりの団員が処刑され、総長のジャック・ド・モレーをはじめとする指導者たちも火あぶりの刑に処されることになった。
ジャック・ド・モレーは死の間際、「我らに罪を着せた人間は全て神の裁きをうけるであろう」との言葉を残し絶命する。
残った団員たちも姿を消し、テンプル騎士団は壊滅した。だが、この1ヶ月後に「ジャック・ド・モレーの呪い」と噂される奇妙な事態が相次ぐ。教皇クレメンス5世が突如病死し、フィリップ4世も狩猟中に落馬して死亡してしまう(一説には十字架を背負った鹿を見て、その鹿を追っている時に落馬したとも言われている)。
さらに、テンプル騎士団の弾圧に荷担した人々が次々と不慮の死を遂げていったという。
もちろん、呪いについては懐疑的な意見が多いのだが、こうしたテンプル騎士団に対する一連の弾圧とその後の風聞は、地に落ちたテンプル騎士団の名声を逆転させた。
テンプル騎士団は「殉教者」として敬われるようになり、さらには神秘的な力を持つ存在だと考えられるようになったのである。
その後、テンプル騎士団の末裔を名乗る、いわゆる「ネオ・テンプル騎士団」と呼ばれる組織が登場することになるのだが、時の政府によっては「テンプル騎士団」の権威を利用しようとするものもあり、地下組織として一定の勢力を持ち続けた。
また、「テンプル騎士団」の名の元に怪しげな思想を説く人間もいた。
19世紀の作家ランツ・フォン・リーベンフェルは、中世の「テンプル騎士団」をアラブ人などの劣等人種からアーリア人を守るための組織だと位置づけ、その意思を受け継ぐ組織として「新テンプル騎士団」なる組織を結成した。
つまり、ランツは「テンプル騎士団」の名をアーリア人の優秀性を説く選民思想的なプロパガンダに利用したのである。
アーリア人を優等人種と考える思想と言えばヒトラーが思い出されるが、ヒトラーはランツからの影響でこの思想を持つようになり、それがナチス・ドイツにつながっていったのだと言われている。
このように「テンプル騎士団」の名は相当に怪しげな目的に利用されるようになり、その後は極右組織などともつながり、今も様々な地下組織を生み出しているのだという。