レイ博士の報告によって、失意のどん底に突き落とされたイギリス国民も、悲しみを抱えながらではあるが、彼等がイギリスの悲願ともいうべき北西航路の発見に成功していた事実に惜しみない賞賛の声を送った。
完全に灯が消えていた北極探険事業に対する国民の想いに、再び灯がともされたのであった。
そして、この報告は資産をなげうって捜索隊を組織したジェインも喜ばせるものであった。やはり、夫は帰らぬ人となったが、フランクリンが率いた隊が成し遂げた偉業は、彼女にようやく心の平穏をもたらせた。
その後もジェインは夫の残した痕跡を風化させたくないという思いから、フランクリン隊の功績を世に残すため、奔走し続けた。
1866年、ロンドンのウォーター・プレイスにフランクリンのモニュメントが建立された。
そのモニュメントには「北西航路の発見にその生涯を捧げた冒険家フランクリンと勇敢な隊員達のために。議会の満場一致の評決によってこのモニュメントを建立する」とのメッセージが刻まれている。
北西航路は、それからちょうど40年後の1906年、ノルウェーの探検家ロアルド・アムンゼンによって完全な形で完成された。
アムンゼンはわずか5名の隊員を乗せた小さな船に、5年分の食料を載せ、北西航路を突破することに成功したのであった。
イギリスが当初持っていたような北西航路の交易ルートとしての活用は、現代になっても実現していない。
航行自体は砕氷船などを使えば、不可能ではないのだが、輸送船などが単独で航行するにはあまりに危険が多く、またコストもかかってしまうため、交易ルートとしての目算が立たないのだ。
幾人もの冒険家の行く手を阻んだ氷が存在する「魔の海域」は、交易ルート化しようとする人類の思惑を拒み続けているのである。
しかし、2000年代になってから北西航路に変化が見られるようになった。
地球温暖化の影響か、徐々に北西航路上の氷が減少していき、2007年の夏には、北西航路からほとんどの氷が消えた事が報告され、実際に3隻の普通船舶が北西航路の通過に成功している。
「魔の海域」は普通船舶でも通行可能な「安全な海域」へとその姿を変えようとしているのである。