このことは、国民にとてつもない衝撃をもたらせた。王が心を失ったことに誰もが悲しみ、ジョージが王家のトップに君臨することに落胆した。
傍若無人な振る舞いを続けるジョージに、既に国民は完全に愛想を尽かせていたが、彼が摂政となったら何をしでかすかわからかった。
愚かな君主の誕生が現実のものになってしまうことに、イギリス国民の誰もが危機感を感じていた。だがこれに毅然と立ち向かう者もいた。
それは時の首相スペンサー・パーシヴァルであった。パーシヴァルはキャロラインがスキャンダルにみまわれた際に、その疑いを晴らすため尽力した人物であったが、ジョージに完全な権限をもつ摂政位を与えるのを阻止するため、立ちはだかったのだ。
皇太子のジョージと首相のパーシヴァル、双方はどちらも引かず、あわや一大政争に発展しかけるが、有利な立場にいるのは、議会をコントロール出来る立場にいるパーシヴァルであった。
ジョージの摂政位の権限には、一年間の間、制限がつけられることとなり、ジョージはこれをしぶしぶ受け入れることになった。
1811年2月6日、宣誓が行われ、ジョージは正式に摂政位につくことになった。
早速ジョージは国民から反感を買う行動に出る。自分が摂政に就任したお祝いとして盛大なパーティーを開催したのだ。
さらに、議会に対して摂政への内帑金(君主が自由に出来る資金のこと)として15万ポンドを要求した。
これらのことは国民の大反発を招き、首相パーシヴァルもこれに反抗した。内帑金は15万ドルから10万ドルにまで減額されることになった。
予想通り、就任当初から身勝手な振る舞いに出たジョージであったが、パーシヴァルがその動きを牽制していることに、国民は頼もしく思っていた。
しかし、この翌年パーシヴァルは暗殺されてしまう。精神病者で政権に不満をもつベリンガムという男に下院のロビーで至近距離から銃撃されたのだ。
懸命な救助活動が行われたがパーシヴァルは帰らぬ人となった。