一方、ジョージもこのような結果に落ち着いたことに胸をなで下ろしていた。
国民の意向に無頓着なジョージも、キャロラインを擁護する民衆のあまりの熱狂に恐怖していたのであった。
しかし、この裁判のため延期されていたジョージの戴冠式(王冠が授けられる式典。この式典を経て正式に王に即位したことが認められる)にキャロラインが参加することだけは、強行に反対した。
キャロラインも一歩も引かず、参加を認めるよう何度も書簡を国王宛に送るが、返信はなかった。
1920年11月29日。セントポール大聖堂で贅の限りをつくした豪華絢爛なジョージの戴冠式が行われた。
祈祷書から名前を削除されたままのキャロラインは、式に参加出来たとしても王妃として認められることはなかった。
それでも、キャロラインは自らの尊厳を守るため、式への参加を決め、セントポール大盛堂へと向かった。
しかし、大聖堂の門番達は決してキャロラインを通そうとはしなかった。式は王妃を欠いたまま執り行われた。
式への参加が認められず、失意の内に帰宅したキャロラインだが、このころからキャロラインは体調を崩し、思うままに生活できなくなっていく。
そして、体調はいっこうに快復せず、床に伏せる状態にまでなってしまう。
キャロラインを診察した医師は胃から激しく出血しているのを見て驚いた。
しかし、その理由は明らかにならず、キャロラインは毒を盛られた可能性すら口にしていたという。
そして1921年8月7日、症状は快復することなく、キャロラインはこの世を去った。死の4日前には「もう快復の見込みがないことはわかっています。でも、私は何も後悔していません」との言葉を残している。
キャロラインの死は毒殺であったのか、それともあまりの心労が引き起こしたものであったのか、諸説囁かれているが、その真相は明らかになっていない。