いっこうに好転しない状況と日に日に少なくなる食料、そして精神に異常をきたしながら死んでいく仲間達の存在が、まだ正気を保っていた隊員達を絶望に追い込んでいった。
あの不屈の精神力をもつフランクリンでさえ、この状況を打破できる手だてを打つことは出来なかった。次第に絶望がフランクリンを蝕み、自分の部屋から出る気力さえ失って衰弱していった。
1847年6月、フランクリンは失意の中、帰らぬ人となった。
指揮官を失った2つの軍艦は夏が来ても、いまだ氷の中に閉じこめられたままだった。
事態はさらに深刻な状態になっていた。壊血病予防で持ってきていたレモンジュースの効能が失われ、壊血病が蔓延していた。隊員20名あまりが死亡した。
やがて冬がやってきた。食料は底を尽きかけていた。もう一年越冬し、氷が溶けるのを待つことなど不可能だった。
あらかじめ定められていた内規に従って、テラー号の船長クロージャー大佐が指揮官に就くことになった。そして、船を降りる決断がくだされた。カナダ北岸を目指すため、氷の張った海を南下するルートを取ることが決められた。
ここで疑問に思われるのは、フランクリンはなぜ船を降りて活路を見いだそうとしなかったのかということである。
1818年の探険でも、最後の希望にかけ果敢に挑戦したいたあのフランクリンが、そうした決断を選ばなかったのにはやはり疑問が残る。
これは船に積まれていた装備に関係があるものと思われる。実は船には防寒用の重装備など、船を捨てて長期間行軍出来るだけの装備は積まれていなかったのである。
海路による北西航路の発見が期待された船には、無用な物と判断されたのだ。
陸路での極地探検の困難さを誰よりも知っているのは、フランクリンであった。極寒の地で陸路用の装備もなく、1818年の陸路探険で地獄から生還した奇跡が再び起こせるとは、到底思えなかったのかもしれない。