1840年代に入り、北極探検に対する熱意が途絶えて久しいイギリス国内で、再び探険事業を進めようとする意欲が高まってきた。
フランクリン、パリー、ロスらの功績によって、北西航路は残すところ、あと500kmのところまで来ていた。
ここまでの成果を残しながら、この状況を放置し、北西航路発見の栄誉を他国に譲るようなことがあっては、イギリスの威信が大きく損なわれてしまう。そんなあせりの声が海軍省の首脳部から持ち上がってきたのだ。
この指摘を受けて、時の首相ロバート・ピールは北西航路の遠征にGOサインを出した。この決定に、イギリス国民の北西航路発見に対する熱狂に再び火が点いた。
今度こそは北西航路の完成をやってのけるだろう。そんな期待が国中からわき上がっていった。
海軍省は指揮官の選抜に慎重を期した。当初は30代~40代の指揮官が候補に浮上するが、局地探険経験の乏しさを危惧する声があがる。
そこで、声がかかったのがジョン・フランクリンだった。59歳という年齢も、経験の豊富さと彼の尽きることのない探険への意欲をもってすれば、全く問題にはならないだろうと判断された。
フランクリンは、10数年もの間ため込んでいた鬱憤を晴らせる好機が、ついに訪れたことに歓喜した。
2度の北西航路への海路での遠征で名を残したウィリアム・パリーが選ばれず、もっぱら陸路での同地域の探険で名を上げたフランクリンが選ばれたのには理由があった。
パリーは2度目の探険以降は、後進の指導にあたる道を選び、その後は自ら船に乗り探険に出ようとはしなかったのだ。