北西航路と北極点、この2つの空白地帯に最も高い関心を寄せていたのは、産業革命を成し遂げ、当時科学技術の最先進国であったイギリスであった。
当時のヨーロッパで、海洋貿易の分野で優位な立場にあったのは、スペインとポルトガルだった。
この2国はヨーロッパを南下して、アフリカ大陸の南端喜望峰を回ってアジアへと至る航路を独占していた。
ここで、イギリスが北西航路の発見を成し遂げ、その航路を独占できれば、スペイン・ポルトガルを巻き返し、多大な利益を生む事ができると予想された。
それ以外にも、探険の過程で生み出される新たな科学技術の発達やそれぞれの地域を領土化できた際の国益など、得られる利益は多大なものになると考えられていた。
これら様々な思惑が絡む北西航路と北極点の到達に、イギリスは国家的な事業として推進することを決定する。
1818年から、イギリスは北西航路と北極点へ何度も探検隊を送りこんだ。しかし、そのどれもが成功を収めるには至らなかった。次第に、様々な要因から、挑戦はあきらめざるを得ない事態に追い込まれる。
ふたたび北西航路の発見に向けてイギリスが挑戦を挑むのは、約30年後の1840年代のことであった。
悲願ともいうべき北西航路の発見に、多大な期待を寄せて選ばれたのは、探検家ジョン・フランクリンであった。
ジョン・フランクリンは当時59歳と高齢ではあったが、この挑戦にはうってつけの人物であった。