リュック・ジュレが教団の顔役となる教祖、ジョセフ・ディ・マンブロがそれを裏で操る黒幕。それが指導者二人の教団内の立場であった。
「太陽寺院」はディ・マンブロが創設した「黄金の道協会」が元になって生まれた組織だった。
ディ・マンブロがこうした組織を生み出したのは、彼の人一倍強い野心によるところが大きかったと言われている。
ディ・マンブロは1924年にフランスの田舎町に生まれるが、家は貧しく十代の頃からアクセサリーの職人として働きに出ていた。
後に、宝石商を営むようになるが、三十代の頃から、「古代薔薇十字神秘団」に入り、その筋での活動を始める。
「古代薔薇十字神秘団」は前述した「薔薇十字団」の末裔を名乗る組織のひとつで、その中でも最大規模のものと考えられている。
メンバーは全世界で20万人~600万人にも上るといわれており、その中には政財界の大物も多数存在するのだという。
上昇志向が強く、野心家であったディ・マンブロが手っ取り早くのし上がるためには、こうした組織を利用するのは有効な手段であったのだろう。
数年間ここで活動したのち、次に「革新テンプル団」というテンプル騎士団を崇める教団に接近する。
「革新テンプル団」は「古代薔薇十字神秘団」のメンバーのひとりがリーダーを務める組織である。ここでも「テンプル騎士団」と「薔薇十字団」との融和性が見て取れるが、ディ・マンブロはこうした活動の中で裏社会との人脈作りを行っていたものと考えられている。
こうした活動を経て、ディ・マンブロは自らも「薔薇十字」や「テンプル騎士団」を崇拝する教団の設立を目指すようになる。
当初は講演活動を行う程度の小さな組織であったが、占い師でもある富豪の女性や心理カウンセラーを弟子にもつようになり、彼女たちが信者を獲得する窓口となっていく。
仕事柄、彼女たちの元には悩みを抱える人々が多くやってくる。そうした人々の中で身持ちが良く豊富な資産を持つ人々はディ・マンブロに紹介され、信者となっていった。
こうした勧誘活動を経て信者を増やしていき、「黄金の道教会」が設立された。当時のメンバーの中には、シェリー村で殺害されていたところを発見された資産家のアルベール・ジャコビーノや高級時計メーカーの幹部であったカミーユ・ピレなどがおり、彼等が教団の大口の出資者となっていった。
さらには著名な音楽家でNHK交響楽団でも指揮棒を振るった経歴を持つ、ミッシェル・タバシュニクなど文化方面での著名人まで信者として獲得する。
そして、のちに教祖となるリュック・ジュレも加わることとなり、教団はさらに大きくなっていくのであった。